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サハラの風を運ぶ男

サハラ砂漠に憧れ、サハラの虜となった日本人は少なくないらしい。
美しいサハラを撮られる、日本人の素晴らしい写真家さんも数多いらしい。

そんな中で、とても印象に残る2枚の写真を撮られた方に一度だけお会いしたことがある。
その2枚の写真は、誰にも真似が出来ない写真に思えた。誰が撮ってもドラマテイックな砂丘の光や影の写真でもなく、誰が撮っても絵になるラクダや遊牧民でもなかった。1985年のその日にその地に、その人の精神状態で存在しなければ撮れないであろう特別な2枚の写真。

僕がサハラのサの字にも興味が無かった頃、既にお一人でラクダを連れ、サハラを横断されていた。僕がカメラのカの字も理解していなかった頃、既に砂漠を撮られていた。
1985年に撮られた2枚の写真は、もしかしたら、僕が見たことのある砂漠写真の中で、ヨルダンのアカバで見かけたべドウインのポートレートや、セシガーの本の中の同じくべドウインのポートレートと同じくらいに何度も見入った写真かもしれない。1985年、その年は僕がロンドンに住み「都会」の夜の音と光にしか興味が無かった頃だ。

その2枚の写真は、砂埃か砂嵐の中のラクダの写真と遊牧民の写真。
その2枚をはじめて拝見した時に、見たことの無い光景なのに、行ったことのない場所なのに、不思議な懐かしさを覚えた。デジャブとはまた違う。その光景の中に一瞬入り込み、その瞬間を疑似体験し、それが、そのまま自分の過去の体験になってしまう感覚。その場に僕は居たのではないかと疑ってしまうくらい強烈な意識の混乱。うまく説明できないが、その2枚の写真と自分が同化したような不思議な感覚に襲われた。感動とは違う感覚。驚き?いや違う、僕の数少ない語彙では言い表せない不思議な感覚。

ありきたりの言い方しか僕には出来ないが、そこにガラス細工のような繊細さと冷たさを見た。繊細ゆえに冷たいような空気感。いや、ガラスほど簡単には壊れない、沙漠のクリスタルのような固さ。
その写真の美しさに僕はゾっとした。そう、ゾッとした。
その視線はセシガーのようないかにも冒険家のそれではなく、もっとポエテイックで個人的な視線。

カイロで一度だけお会いしたとき、その方の持つ独特な空気に僕は戸惑った。
目の前にいらっしゃるのに、数百キロも離れた遠くにいるような錯覚に陥った。その方の周りにだけ砂漠の空気が流れているような、初めて知るタイプの方だった。彼を見ていると、自然とサハラの風を感じることが出来た。
音の無い風。砂の匂い。
その後、再会することもなく時折メールのやり取りがあるが、今でも印象は変わらない。サハラの砂のように掴めない、不思議な方だ。その方は砂漠好きには有名な方なので、もちろん、人によって受ける印象はまったく違うのだろうが、僕はそう感じている。

偉そうに、いったい僕は何を書いているのだろう?

To cut a long story short...

その方のサイトtenereです。その中にその2枚のお写真もあります。さて、どの2枚でしょう?(笑)


下の画像は、その方とは無関係ですが、その方が長年暮らされたマリという国のサハラ出身のトゥワレグ族の写真です。
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コメント

ありがとうございます

とても素敵な文章で紹介いただき、おもはゆいです。

厳しい自然と暮らしのサハラ砂漠にいると、仮面を被っている余裕がなくなります。
ありのままの自分でいるしかなくなります。
登山や海の上も同じかも知れませんね。
そこでは剥き出しの自分に向かい合うことになります。
自分の心情がストレートに自分に跳ね返ってきます。

そんな素の自分は最初ギラギラしています。
他人とぶつかりやすいし自分も戸惑います。
でも長くいるとギラギラや戸惑いは太陽に晒され、砂に擦られ、だんだん枯れて澄んできます(笑)
そんな余計なものが削ぎ落とされていくサハラ砂漠が私は大好きです。

日本や他のアジアやヨーロッパ(アメリカは行ったことがないのでわかりません)で写真を撮るよりも、サハラで撮った写真には自分自身がとても強く映し出されている気がします。
だから、私のサハラやそこに暮らす遊牧民の写真を気に入ってくださる方は、私とどこか波長が似ている、気持ちの繋がる方だと思っています。
サハラの写真を通して私は友人を探しているのかも知れません。

もし私の写真を気に入ってくださった方は気軽に連絡してください。
日本でならサハラの料理をご馳走しますよ。
私じゃなくサハラ生まれの妻が作ってくれるので遠慮なく(笑)
そしていつか、サハラ砂漠の砂丘の上で一緒にミントティーを飲みましょう。
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